夕刻を過ぎ、18時間、約1400kmの長い走行を終え、九州道を降りて、鹿児島市を山側から、港に向かって走っていると、港に向かう坂道が開けたところで、突然、桜島のシルエットが車を運転する私の眼前に浮かびあがった。桜島は既に日が落ちた後の残光を背に、その輪郭に光を帯び、影となった桜島が、確かに私の前方に、鎮座していた。
第四にその薩摩のシンボルである桜島は、無意識にも薩摩の勇士、西郷隆盛と重ならざるを得ないということであろう。
西郷については、多くを語る必要はないと思うが、政権を朝廷に返し、官軍として幕府側の勢力と戦い、江戸時代を終わらせる。徳川の幕臣は、徳川幕府の継続と徳川の威厳と威信を守るため、薩長の官軍は、徳川の時代を終わらせて、理想的な新政府を起こすために、双方、侍として、武士として、立派にその仕事を全うしたと思うのである。どちらが正しいとiいうことではなくて、今はただそう思うのである。双方、立派であったと。新政府が起こり、やがて廃刀令や俸禄廃止等に反発する士族の反乱が起こると西郷は、九州地方の士族反乱の盟主として西南戦争を起こして、大日本帝国陸軍を相手に戦うこととなる。激戦の末に敗れて、自刃して薩摩武士として、その一生を終わる。その内乱が我が国における最後の内戦ということになるのである。しかし、西郷死すとも、武士の魂は死せず、その精神と魂は、第二次世界大戦終焉まで、我が国に生き続けるのである。その西郷の魂が、今なお噴煙を天高くあげて燃え続ける桜島に宿っているような気がするのである。そして、桜島は我が国に長い武士、士族の世があったことの証であるかのように存在しているような気さえしてくるのである。
何故、江戸から遠く離れた、ある意味田舎武士がそのような思想を持ち、また行動に出られたのかという考えを持つ人もいるようだが、江戸から離れた外様であるからこそ、「尊王攘夷」に目覚め、また、その地で早くから西欧の武器を目にして、手に取ることがあって、戦艦を目の当たりにして、このままで、我が国は大丈夫なのか、外敵に対して、太刀打ちできる新しい国を作らなければならないという思いと危機感が、倒幕に繋がってゆくのだと思う。
新政府が起こり、明治の世になって、我が国にも帝国主義の波が押し寄せ、我が国はアジアへと進出し、やがて大日本帝国軍は、大東亜共栄圏建設という大義名分のもと、アジア諸国を侵略していく。私はこの時期の日本に関して、「帝国主義」と「他国侵略」という点で、嫌悪感を持っていたし、また、罪悪感さえ感じていた。世界のファシズムの波に飲み込まれていたとしても、できれば、するべきではなかったと。しかし、今は、こう思うこともあるのである。その日本帝国軍に我が国の武士の精神、魂が息づいていたとするならば、それは、我が国の統制下になった国々は、少なくとも、人種差別から始まる列強の支配下におかれるよりよかったのではないかと。あくまで他国侵略ということを恨みながらも、そう思うこともあるのである。
( 書かないでおいた第五の理由がある。それは、母の世話をして過ごした10年の月日である。そして、その末に母を失った深い悲しみである。自制していたその思いと感情が深層心理にあって私自身に内在していて、桜島を前にして、その堰が崩れ、いっきに溢れ出し、無言の号泣となったのかもしれない。)
私は「桜島」とその山を特に総称で呼んでいるが、この島の山は御岳と言い、火口のある北岳と、中岳、南岳からなる。火口のある北岳が最高峰で、御岳として南北に並び、桜島の大部分を構成するのである。
そして、1914年の大正噴火で、溶岩流が南東側の海上に伸び、桜島と大隅半島が陸続きになったのである。そう、その時から桜島は実は、陸続きなのである。
桜島の名前の由来は、次の三説がある。
① 島内に木花咲耶姫命を祀る五社大明神があり、咲耶島(サクヤジマ)と呼んでいたが、転訛して、桜島(サクラジマ)となった。
②10世紀に大隅守を勤めた桜島忠信の名に由来する。
③噴火により海面に桜の花が浮かんで桜島ができたという伝説に由来する。
尚、桜島の名称が初めて文献に現れるのは、僧以安の1512年「西藩儒林伝」に記されている漢詩であるとされている。「櫻島回首見雪花(櫻島に首を回して見ると雪花が見える)」とあり、その時には、既に桜島と呼ばれていたということになると思う。
花は霧島
煙草は国分
燃えて上がるは
オハラハー桜島
桜島には
霞がかかる
私ゃ貴方に
オハラハー気がかかる
この地去っても
夢路に通う
磯の浜風
オハラハー桜島





































































































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